久々に熱を出しました。
身体は基本丈夫、
健康なはずなんだけど
熱にはめっぽう弱く
普段は元気
わりといつでも強気な私でも
熱が出ると
あれ?
こんな人だったっけ?
みたいな自分でも驚くほどの
弱気になります。
しんどくて、
喉が渇いて、ふらついて
でも
今夜中にやらないといけないこともあり
必死に頑張ろうとするんだけど、、、
身体を起こして
うーん、と
立ち上がろうとした瞬間
びゃーっ、て
感情が
堰を切ったように
溢れだして
涙がこぼれて
小高に帰りたい、、、
と泣いている自分に驚きました。
別に東京での生活に不満もなく
定期的に福島には帰れているし
小高にも何回かだけど
入れてはいる
東京での生活は
色々大変なこともあるけど
楽しいし
そこそこ頑張れている
毎日毎日、故郷小高を思い枕を濡らしているなんてものとは
程遠い日常のはず
なのに、、、
病気て
怖いものなんだなあ
あっと言う間に
こんな感情に支配されて
しまうんだな
私、闘病生活とか
絶対無理だろうなあ
病気知らずな身体に感謝です。
あっと言う間に出た涙は
あっと言う間に引っ込み
あっと言う間に我に帰り
次の瞬間には
不可解な感情の動きに
母を思い出していました。
母の何を思い出したかというと
彼女が
会津に帰りたい
と言って泣いていた映像が
瞬間的に
浮かんでしまったことです。
まだ私が確か18か、19ぐらいの頃かなあ、、
母が手術を受けました。
手術は無事成功したけれど
麻酔からの覚醒が予定より遅れ
お医者様が診にこられて
まだ?
と看護師さんに言ったあと
母の身体をバシバシはたきながら
大丈夫ですか?
起きてください!
起きてください!
とやっているのを見て
あ、これは
結構マズイ状況なんだ、、、
と思ったのを覚えています。
私も、
お母さん!
お母さん、起きて!
なんて叫んだりして
父は
母が手術なんて
悲しすぎて辛すぎて
見てられなくて
どっかに行ってしまい
(パンチ!笑)
妹はまだ中学生
1人でずっと徹夜で
母の病室にいました。
しばらく後
二回目の先生のバシバシで
虚ろな顔をして
母は目を覚ましました。
夜中2時ぐらいだったかなあ、、、
先生が母に優しい言葉をかけてくださり
それを見て
私もやっと安心しました。
病室に二人になって
母に
手術は成功したよ
先生がもう大丈夫、て言ってたよ
と言うと
ぽろぽろ、ぽろぽろ、
涙をこぼしはじめ
会津に帰りたい、、、
と
か細い声で言いました。
まだ
身体中、管でつながれて
しゃべるのもままならない状況で
最初に発した言葉が
手術のことでもなく
私の名前でもなく
会津に帰りたい、、、
母は
福島県会津高田町で生まれ育ち
父と結婚して
南相馬市の人となりました。
南相馬市の親戚とも
仲良くし
友達もでき
仕事もし
まあ、色々あったにせよ
何十年もそこで暮らしているわけで
私には
当時、理解不能な
というか、
理解したくない言葉でした。
でも
いつも気丈で明るい母は
本当は
歯を食いしばって必死に
ずーーーーっと
頑張ってきたのかもしれない
自分にとって
頼れる優しい
「お母さん」である役割の人間の
1人の他人としての彼女の人生に
初めて思いを寄せた場面でもありました。
ネットも携帯もない時代に
知っている人が誰もいない土地で
どれだけ寂しかったんだろう
今より交通も便利じゃなくて
感覚的に
会津は遠い土地だったんだろう
お母さんも
私にとってはお母さんだけど
不安だよね
弱気になるよね
お父さん、お母さん、に保護される
明日のご飯の心配なんてしなくていい
子どもでいたくなったんだよね
言葉にしてそんなことは
言えなかったけど
なんとか母を
子どもにしてあげたくて
大丈夫!
大丈夫!
明日からのことも
生活も
入院費も
手続きも
通院も
妹のことも
お父さんのことも
みんなのご飯も
全部、私がやるから!
出来るから!
何にも心配いらないし
お母さんはご飯食べて
寝てればいいんだよ!
痛かったら看護婦さん呼ぶし
点滴はずっと朝まで
私が見てるから!
まだ未成年である
十代の私に
そんな責任は果たせるわけもなく
勿論、何の根拠もなかったです。
母は
もう一度
会津に帰りたい、
その後
けいこちゃん、、
と言って
眠りにつきました。
鼻から管が出ている母の寝顔を見ていたら
数分前に啖呵切ったくせに
私自身ぽろぽろ、ぽろぽろ、
泣けてきました。
もっと、もっと早く
母を子どもにさせてあげられたら
よかった、、、
手術への不安や
その後の生活の不安をもらしても
オトナが何言ってんだ、ぐらいで
私がまだ子どもでいたかったから
母を
お母さんなんだから大丈夫
という枠にはめて
気丈で明るいお母さんという役割から
ほどいてあげなかった
親といえども
1人の人間であり
そこに強さも弱さもなく
物質的にはまだだけど
精神的に自分が
保護のエリアを飛び出すのを先延ばしにしていた
自覚さえすれば
もっと早く母を子どもにしてあげれたのかもしれない
そうしていれば
母の術後の声は
もしかしたら
違っていたのかもしれない
いろんな考えがどんどん浮かび
なかなか泣きやむことが
できなかったです。
その後
順調に回復し、
数十年たった今は
そんなこと、あったっけ?
ぐらいの
元気いっぱいの明るい母です。
私もこんなことがあったこと
ずっと忘れていました。
まさか自分が
たかだかちょっと熱だしたぐらいで
同じセリフを口にするとは、、、。
私はなんで泣いたんだろう
心の疲れが
溜まってでもいるのかな
野菜スープでも
飲むか、、、。
故郷に帰りたい
という言葉は
大好きな人に優しくされて
安心したいんだ
て意味の言葉なのかもしれないと
もう一度
体温計はさみながら
ぼんやり
ぼんやり、、、、
誰にだって
オトナだって
子どもにかえりたい夜が
あるのだ。
身体は基本丈夫、
健康なはずなんだけど
熱にはめっぽう弱く
普段は元気
わりといつでも強気な私でも
熱が出ると
あれ?
こんな人だったっけ?
みたいな自分でも驚くほどの
弱気になります。
しんどくて、
喉が渇いて、ふらついて
でも
今夜中にやらないといけないこともあり
必死に頑張ろうとするんだけど、、、
身体を起こして
うーん、と
立ち上がろうとした瞬間
びゃーっ、て
感情が
堰を切ったように
溢れだして
涙がこぼれて
小高に帰りたい、、、
と泣いている自分に驚きました。
別に東京での生活に不満もなく
定期的に福島には帰れているし
小高にも何回かだけど
入れてはいる
東京での生活は
色々大変なこともあるけど
楽しいし
そこそこ頑張れている
毎日毎日、故郷小高を思い枕を濡らしているなんてものとは
程遠い日常のはず
なのに、、、
病気て
怖いものなんだなあ
あっと言う間に
こんな感情に支配されて
しまうんだな
私、闘病生活とか
絶対無理だろうなあ
病気知らずな身体に感謝です。
あっと言う間に出た涙は
あっと言う間に引っ込み
あっと言う間に我に帰り
次の瞬間には
不可解な感情の動きに
母を思い出していました。
母の何を思い出したかというと
彼女が
会津に帰りたい
と言って泣いていた映像が
瞬間的に
浮かんでしまったことです。
まだ私が確か18か、19ぐらいの頃かなあ、、
母が手術を受けました。
手術は無事成功したけれど
麻酔からの覚醒が予定より遅れ
お医者様が診にこられて
まだ?
と看護師さんに言ったあと
母の身体をバシバシはたきながら
大丈夫ですか?
起きてください!
起きてください!
とやっているのを見て
あ、これは
結構マズイ状況なんだ、、、
と思ったのを覚えています。
私も、
お母さん!
お母さん、起きて!
なんて叫んだりして
父は
母が手術なんて
悲しすぎて辛すぎて
見てられなくて
どっかに行ってしまい
(パンチ!笑)
妹はまだ中学生
1人でずっと徹夜で
母の病室にいました。
しばらく後
二回目の先生のバシバシで
虚ろな顔をして
母は目を覚ましました。
夜中2時ぐらいだったかなあ、、、
先生が母に優しい言葉をかけてくださり
それを見て
私もやっと安心しました。
病室に二人になって
母に
手術は成功したよ
先生がもう大丈夫、て言ってたよ
と言うと
ぽろぽろ、ぽろぽろ、
涙をこぼしはじめ
会津に帰りたい、、、
と
か細い声で言いました。
まだ
身体中、管でつながれて
しゃべるのもままならない状況で
最初に発した言葉が
手術のことでもなく
私の名前でもなく
会津に帰りたい、、、
母は
福島県会津高田町で生まれ育ち
父と結婚して
南相馬市の人となりました。
南相馬市の親戚とも
仲良くし
友達もでき
仕事もし
まあ、色々あったにせよ
何十年もそこで暮らしているわけで
私には
当時、理解不能な
というか、
理解したくない言葉でした。
でも
いつも気丈で明るい母は
本当は
歯を食いしばって必死に
ずーーーーっと
頑張ってきたのかもしれない
自分にとって
頼れる優しい
「お母さん」である役割の人間の
1人の他人としての彼女の人生に
初めて思いを寄せた場面でもありました。
ネットも携帯もない時代に
知っている人が誰もいない土地で
どれだけ寂しかったんだろう
今より交通も便利じゃなくて
感覚的に
会津は遠い土地だったんだろう
お母さんも
私にとってはお母さんだけど
不安だよね
弱気になるよね
お父さん、お母さん、に保護される
明日のご飯の心配なんてしなくていい
子どもでいたくなったんだよね
言葉にしてそんなことは
言えなかったけど
なんとか母を
子どもにしてあげたくて
大丈夫!
大丈夫!
明日からのことも
生活も
入院費も
手続きも
通院も
妹のことも
お父さんのことも
みんなのご飯も
全部、私がやるから!
出来るから!
何にも心配いらないし
お母さんはご飯食べて
寝てればいいんだよ!
痛かったら看護婦さん呼ぶし
点滴はずっと朝まで
私が見てるから!
まだ未成年である
十代の私に
そんな責任は果たせるわけもなく
勿論、何の根拠もなかったです。
母は
もう一度
会津に帰りたい、
その後
けいこちゃん、、
と言って
眠りにつきました。
鼻から管が出ている母の寝顔を見ていたら
数分前に啖呵切ったくせに
私自身ぽろぽろ、ぽろぽろ、
泣けてきました。
もっと、もっと早く
母を子どもにさせてあげられたら
よかった、、、
手術への不安や
その後の生活の不安をもらしても
オトナが何言ってんだ、ぐらいで
私がまだ子どもでいたかったから
母を
お母さんなんだから大丈夫
という枠にはめて
気丈で明るいお母さんという役割から
ほどいてあげなかった
親といえども
1人の人間であり
そこに強さも弱さもなく
物質的にはまだだけど
精神的に自分が
保護のエリアを飛び出すのを先延ばしにしていた
自覚さえすれば
もっと早く母を子どもにしてあげれたのかもしれない
そうしていれば
母の術後の声は
もしかしたら
違っていたのかもしれない
いろんな考えがどんどん浮かび
なかなか泣きやむことが
できなかったです。
その後
順調に回復し、
数十年たった今は
そんなこと、あったっけ?
ぐらいの
元気いっぱいの明るい母です。
私もこんなことがあったこと
ずっと忘れていました。
まさか自分が
たかだかちょっと熱だしたぐらいで
同じセリフを口にするとは、、、。
私はなんで泣いたんだろう
心の疲れが
溜まってでもいるのかな
野菜スープでも
飲むか、、、。
故郷に帰りたい
という言葉は
大好きな人に優しくされて
安心したいんだ
て意味の言葉なのかもしれないと
もう一度
体温計はさみながら
ぼんやり
ぼんやり、、、、
誰にだって
オトナだって
子どもにかえりたい夜が
あるのだ。
keiko
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