自分の口で自分の言葉で。

最近、といっても
気がつけば、ここ数年

どうしても
不快感がぬぐえないことがあります。

不快極まりない。

どこの誰が書いたかわからないブログ
どこの誰が書いたかわからない記事を
よく考えたり
ちょっと調べたらデマだとわかるものを
その手間を置き去りにしたまま
シェアしたり
リツイートしたり

そういうイイカゲンなものを
平然と拡散して

そこに罪はないのか

いいかげんにしろ!!
このクソが!
なんて事は言いません。
私はお上品なので。

無明だな、、と
感じています。
灯が無い、ということです。

誤解していただきたくないのは

自分とは違う意見の方
理解し難い見解を持つ方に対し
そう感じている、という意味ではないと
いうことです。

私が特徴として感じていることは
本当に信念に近い感情で
意見を述べる方は

私が相容れない意見、見解であっても
自分の口で自分の言葉で
書いている
ということです。

へー、そう思ってるんだ?
私とは違う意見だなー
とは思いますが

その方がきちんと自分の口で自分の言葉で
書いてある
きちんと自分の名前のもとに
述べられている

その責任感は
私なりに
きちんと認め、尊重しています。



自分の言葉で書くというのは
その思いに責任を持つということです。


真実がわからないのであれば
それはそう述べればいい

これが事実だ!
ではなく

私はこう『思う』
で良いと思うのです。

ただ、、

自分の言葉が何一つない状態で
シェア、リツイート、をされているのを
見ると

どうしても私には
その方が
無責任に思えてしまい
その意見を尊重する気持ちが失せるのです。

あくまでこれは
ネガティヴ要素が強いものに限ってのことですが。

いいお話、優しい言葉、
感動、共感するブログ、記事、などが、
シェア、リツイートされている場面は
どこか
微笑ましく

私もブログをリツイートしていただけたりしますと嬉しいですし
その方には
毎回、心の中でですが

ありがとうね!
ありがとうございます!
なんて
つぶやいたりします。

では、私の思う
ネガティヴ要素の定義とは何か

万に一人でも
それが拡散されることで
涙を飲む方がいる可能性があるものです。

そこをイメージできない
間違った正義感が
どれだけの人を苦しめているのか
一度でも考えたことがあるのだろうか。

物事には明確な善悪があると思います。
明確な正義、大義、も
あると思います。

ですが
悔しいことに
正義『感』は、
個人、個人の尺度なのです。

私はこう思う!


その方の感情です。
それは自由です。

だから
そういった私とは違う意見
相容れない見解の方を
嫌いになることは
ありません。

むしろ、あっぱれ
というか

そこまで間逆の意見を
自分の言葉として述べることに対し
ある意味、覚悟を持って
述べられている姿勢に対し

対等でいたい
私もきちんと
自分を持っていたい
とすら感じます。


ですが
自分の口で自分の言葉のない
ネガティヴ要素の
あきらかにデマのようなものの
シェア、リツイート、の繰り返しには

残念ではありますが
私には

その方の『正義感』の誇示としか
受け止められないのです。

いいかげんにしろよ!
このクソが!
なんてことは言いません。

それは
自分の意見を
自分の名前のもとに責任を持つ
という感覚がない方への

私からの哀れみです。

0コメント

  • 1000 / 1000

keiko